GROW THE PIE <序章>
ヒューマンバリューでは、ロンドン大学ビジネススクールのアレックス・エドマンズ氏の著書『GROW THE PIE』の翻訳本を2023年7月に発刊します。本ページでは、同書の要点と書かれた背景が紹介されている、著者による序章を先行公開します。本書に関心をもっていただくきっかけとなれば幸いです。
ノーベル経済学賞受賞者、ミルトン・フリードマン
我々はすべてのステークホルダーに対する基本的なコミットメントを共有する。顧客のために価値を提供すること、(中略)自社の従業員に投資すること、(中略)サプライヤーを公正かつ倫理的に扱うこと、(中略)活動の場であるコミュニティを支援することにコミットする。
ビジネスラウンドテーブルの「企業のパーパスに関する声明」
取締役会のパフォーマンスを改善する最も効果的な方法は、株主の力を高めることである。
ハーバード・ビジネス・スクール、ルシアン・A・ベブチュク
株主の優位性という構想にはそもそも難があり、すべてのステークホルダーのニーズを満たすことに完全に失敗してきた。
ワクテル・リプトン・ローゼン・アンド・カッツ創設パートナー、マーティン・リプトン
CEO報酬は1978年以降で940%増えたが、米国人の平均報酬は12%しか上がっていない。これは間違っている。(中略)今こそ富だけでなく労働に報いるべきである。
米国第46代大統領、ジョー・バイデン
競争力を改善するための努力をしなければ、エールフランスは消滅するだろう。(中略)私は皆に─不当な賃上げを要求している客室乗務員、地上職員、パイロットに─責任を果たすことを求める。
フランス経済財務大臣、ブルーノ・ルメール
ビジネスは一般の人々の役に立っていないというコンセンサスが、政治家、一般市民、さらには当の企業幹部も含めて、政治的立場も洋の東西も問わずに形成されている。
2007年の経済危機により米国人900万人が職を失い、1000万人が家を失った。経済は回復したものの、その恩恵の大半は企業の上役や株主の手に渡り、労働者の賃金は伸び悩んだ。2019年に世界で最も裕福な22人の男性が享受した富は、アフリカ全体の女性の富を上回った。新型コロナウイルス感染症のパンデミックのために、この格差は拡大するばかりである。1億人が極度の貧困に陥る一方で、億万長者の富は急増している。
企業は世界的トレンドの恩恵を受動的に受けるだけでなく、その形成に能動的に貢献する。1ドルでも多くの利益を搾り出すために、従業員の給与をできるだけ低く抑え、健康安全要件を軽視して酷使する企業も多い。世界で毎日7500人が仕事に関する病気や事故で亡くなっている。企業のインパクトは広範囲に及び、顧客や従業員ではない人々まで傷つける場合がある。2020年6月、米国の電力会社パシフィック・ガス・アンド・エレクトリック・カンパニー(PG&E)は、設備の欠陥が原因で発生したカリフォルニア州の山火事に関する84件の非故意故殺*について罪状を認めた。
*(訳注)故意に殺すつもりはなかったが、結果的に殺してしまったこと。
被害は人間だけでなく地球環境にも及ぶ。2010年には、BPの石油掘削施設ディープウォーター・ホライズンの爆発事故が発生して490万バレルの原油が海に流出し、米国の8つの国立公園に影響を与え、400の生物種を危険にさらし、1000マイルの海岸線が汚染された。その5年後、フォルクスワーゲンは自社の自動車に「ディフィートデバイス」を搭載したことを認めた。これは排出ガス試験を不正に通過するための装置で、欧州だけで1200人の死者を出す一因となった。鉱山会社リオ・ティントは2020年5月、オーストラリアのジューカン・ゴージ─先住民のプートゥ・クンティ・クラマ族とピニクラ族の聖地で、4万6000年前から人々が守ってきた遺跡─を破壊した。これらの個々の事例に加えて、企業は毎年、推計4兆7000億ドルの環境コストを生み出している。
市民はこれに抵抗している。2019年4月15日、活動家団体のエクスティンクション・レベリオンは33カ国の80都市で抗議デモを組織し、道路、橋、建物を封鎖して不十分な気候変動対策への反対を訴えた。その他にも、オキュパイ(占拠)運動、ブレグジット、選挙でのポピュリスト指導者の勝利、貿易や移民の制限、CEO報酬に対する抵抗など様々な動きがある。しかし、詳細な反応の仕方は違っても思いは同じだ。「我々」を犠牲にして「彼ら」が恩恵を受けているということである。
そして、企業はそれに対応している──あるいは表面上はそう見える。ステークホルダー資本主義──企業はより大きな社会に貢献するべきだという考え方──は今日の企業の流行語になっていて、2020年の世界経済フォーラム(ダボス会議)のテーマにもなった。2019年8月、影響力のある米国のCEOで構成されるビジネスラウンドテーブルが、「企業のパーパスに関する声明」を、株主だけでなくステークホルダーを含めるように抜本的に再定義した。
しかし、このリーダーたちが本心から主張しているのかどうかは不明だった。ダボス会議が重視するのは実際に善を為すことよりも、善を為しているように見えることだと批判する批評家もいる。ビジネスラウンドテーブルの声明は規制を食い止めるための広報活動だと主張する懐疑派もいる。実際、署名企業の中には、新型コロナウイルス感染症のパンデミック時に、何千人もの労働者を解雇しながら、投資家に多額の配当金を支払ったところもあった。
つまり、社会から搾取する企業、それに抵抗する一般市民、売名とも取られるような行為で規制をかわしながら搾取を続ける企業が存在する。そしてこのサイクルは世紀を超えて続いている。19世紀半ばに、カール・マルクスは資本と労働の闘争について書いた。それ以来、企業幹部・株主と労働者・顧客の間を振り子が行ったり来たりしている。例えば19世紀後半に、泥棒男爵(ロバー・バロン)はスタンダード・オイルなど巨大独占企業を作り上げたが、政策決定者らはそれらの一部を解体するという方法で対応した。1970年代に労働組合の力がピークに達すると、それを衰退させる法律が制定された。20世紀初頭に台頭した大銀行は、結果的に1929年の金融危機を招き、グラス・スティーガル法によって規制された。そしてこの規制は1980年代から部分的に改定されて、2007年に再び危機を引き起こす一因となった。別の方法を考え出さなければ、このストーリーは何度も再演されるだろう。
しかし嬉しいことに、別の方法は存在する。
抜本的に異なるビジネスアプローチを採用することにより、企業は投資家のための利益と社会のための価値の両方を創出できる。つまり、このような様々な対立に直面しつつも、本書は基本的に楽観的な書籍である。とはいえ単なる希望的観測ではない。このアプローチが各種業界のすべてのステークホルダーに有効であることを示す厳密なエビデンスと、それを実現するための実践的なフレームワークに基づいた楽観主義である。
このアプローチの核となるのは思考の転換だ。本書では対立を生み出す思考をパイ分割のメンタリティと呼ぶ。この考え方では、企業が生み出す価値を、大きさが一定のパイと見なす。すると「我々」が受け取るパイの1切れを大きくするためには、「彼ら」のパイを小さくするしかない。ビジネスはゼロサムゲームである。利益を最大化するために、CEOは価格を上げたり賃金を下げたりして、社会から奪い取る。逆に言えば、企業に確実に社会貢献をさせるためには、利益を取り締まらなければならない。
パイを公平に切り分けることは重要だが、ビジネスの改革は単なるパイの再分配ではない。なぜならそれは利益を減少させる行為だからだ。このことは2つの問題をもたらす。第一に、改革によって企業の収益性が低下する場合、多くのCEOは自発的に改革を進めようとはしないだろう。各種の声明に署名しても実行に移さないかもしれない。パイの分割方法は規制によって企業に義務づけなければならないが、規制で生まれるのはコンプライアンスだけで、コミットメントではない。有意義な仕事の提供やスキル開発を行わなくても、企業が最低賃金法を満たすことは可能である。
第二に、利益が減ることは株主にとってマイナスである。多くのビジネス評論家はこのことを問題視せず、投資家はしばしば、名前も顔もない資本家と表現される。しかし投資家とは、顔のない「彼ら」ではなく「我々自身」である。そこには子どもの学費のために貯金をする親、年金生活者のために資金を運用する年金制度、請求される保険金の財源を確保する保険会社なども含まれる。そして、そもそも企業が資金を調達するためには投資家が必要であり、投資家はリターンが期待できる場合にしか投資しない。従って、ビジネスを改革する場合は必ず、社会的価値と同時に利益を生み出さなければならない。
それが本書の要点である。パイ拡大のメンタリティでは、パイの大きさは一定ではないという点を強調する。ステークホルダーへの投資は投資家の分け前を減らすことにはならない。パイが大きくなり、最終的に投資家に恩恵がもたらされるのである。ある企業は純粋に従業員に対する配慮から労働条件を改善し、それによって従業員の意欲や生産性が向上するかもしれない。ある企業は、パンデミックを抑えるべく、感染者たちに新たな医薬品の購買力があるかどうかを度外視して開発に取り組むが、最終的には商業化に成功するかもしれない。またある企業は、環境に対する責任感から、罰金を科される水準をはるかに下回るレベルまで炭素排出量を削減するが、その結果、そうした価値観に顧客、従業員、投資家が魅了されて、企業に恩恵がもたらされるかもしれない。
重要なのは、パイが利益ではなく社会的価値を表していて、利益はパイの1切れに過ぎないということである。パイを拡大する企業の第一の目的は社会的価値の創出であり、利益は副産物と見なされる。意外にもこのアプローチは、利益を最終目標にした場合よりも多くの利益をもたらすことが一般的だ。その理由は、長期的に大きな見返りが得られる投資を数多く実行できるからだ。しかし見返りを最初から予想することはできないため、もし利益だけが基準ならば、そうしたプロジェクトは決して承認されないだろう。「株主価値を最大化する」というルールは理論的には魅力的だが、実際にはうまくいかない。長期的利益に影響を与える決定がいくつあるかを、大まかにでも計算することは非常に難しいのである。パイ拡大のメンタリティの力は、計算の代わりに原則を用いて、不確実性の中で意思決定を行う実践的な指針を与えることである。
要約すると、レスポンシブル・ビジネスは社会に価値を生み出すことでのみ利益を創出するということである。利益に対するこのポジティブな効果は、先ほどの2つの問題の両方を解消できる。つまりステークホルダーだけでなく投資家にも恩恵がある。そして、ビジネスの方法を変革して社会に与える影響を真剣に考えることが、その会社自身の利益になる。実際、これを実行することは急務である。社会貢献は贅沢な行為でも単なる追加オプションでもなく、企業の長期的成功の土台となるからだ。
パイを拡大できるということは、一部の企業幹部や投資家の認識とは異なり、パーパスは利益を犠牲にしない。また、ビジネス評論家の主張とも異なり、利益がパーパスを犠牲にする必要もない。その意味は大きい。高い利益、さらには高いCEO報酬も、適切な方法で得られたものならば自動的に企業を「名指しで貶める」理由にはならない。多くの場合、利益とは、何かをより良くする行為の副産物であり、時代とともに人類を進歩させてきた原動力である。投資家は必ずしも抑圧されるべきではなく、資本主義をパーパスのあるサステナブルな形へと改革するための味方である。企業と社会は敵ではなく、同じチームの仲間である。組織の全メンバーが共通のパーパスのもとに団結し、長期的な視野を持って協力すれば、すべての関係者─株主、労働者、顧客、サプライヤー、環境、コミュニティ、納税者─の分け前が大きくなるような方法で、共有価値を生み出せる。従って、投資家かステークホルダーのどちらに貢献するかという二者択一の問題にする必要はない。どちらにも貢献できるのだ。
このウィン・ウィン思考こそが本書の肝である。第一部はなぜから始めよう。企業はなぜ存在するのだろうか。なぜ利益だけでなく社会的価値の創出にフォーカスするべきなのだろうか。第一部ではパイ拡大のメンタリティを紹介し、パイ分割のメンタリティ、ひいてはより一般的なビジネスの考え方(「啓発された株主価値」など)との違いを説明する。さらに、パイ拡大のメンタリティに対する潜在的な反論に答え、それを実践する際の微妙なニュアンスについても検討する。パイを拡大することは、利益を無視することでも、コストを軽視して気ままに投資することでもなく、的を絞った規律のある行為である。そこで私は、プロジェクトを却下するべきか、厄介なトレードオフにどう対処するべきかといった判断をする際に、不確実性のある中でも指針として適用できる一連の原則を提示する。重要なのは、リーダーが原則に従っているかどうかを投資家が評価できるため、株主価値の計算から逸脱した場合にリーダーとしての説明責任が果たせないという懸念が払拭されることである。これらの原則は、判断の実用性と計算による説明責任を兼ね備えている。
そして次に、社会貢献の結果としての利益創出が、出来過ぎた夢物語ではなく、現実的で達成可能であることを示すエビデンスを紹介する。投資家と社会が同時に恩恵を得ることは可能なのだ。つまりステークホルダーのための価値を生み出すことは、単なる立派な理想ではなく、優れたビジネスとして成り立つのである。私が実務家向けにパーパスの重要性について講演するとき、ファイナンスの教授として紹介されると、聴衆は聞き間違いかと思うようだ。ファイナンス分野の人々はしばしば、ミッション主導のイニシアチブは利益創出への集中を妨げるものだと信じて、これに敵対するからだ。トレードオフの影響が特に大きい場合、短期的には確かにそうかもしれない。しかし長期的なエビデンスを見ると、そのようなマインドセットを持つファイナンス部門はどこも、役目を果たすことに失敗している。
第二部では、何がパイを拡大するのかを議論する。ここでは、一般的な改革案の多くが、大きさが一定のパイを分割するという考え方を土台にしているために、実際にはうまくいかないことを示す。パイ分割ではなくパイ拡大のレンズを通すことにより、最も議論の多いビジネスの要素について、従来の考え方を覆していく。また、ステークホルダーを犠牲にしてCEOや投資家にメリットを与えるものと見なされがちな役員報酬、株主アクティビズム、自社株買いに注目し、これらが皆のためにパイを拡大する可能性があることを確認する。ただし、重要なのは「可能性がある」という言葉である。現状ではそうならない場合が多いため、その改善方法を議論するつもりだ。
第三部は、どのようにパイを拡大するかという実践的な問題に目を向ける。そしてパーパス─企業の存在理由と世界で果たす役割─の威力を強調する。パーパスは「その企業がそこに存在することで、どのように世界がより良い場所になるのか」という問いに答えを出す。とはいえ、短期目標に追われる大事なときに、CEOはどうやってパーパスを実践できるのだろうか。第三部では、企業、投資家、規制当局、市民が、個別あるいは協力し合ってパイを拡大する能力と責任に光を当てる。
パイ分割のメンタリティは広く浸透していて、企業と社会の関係だけに当てはまるわけではない。金持ちから奪い取って貧しい者に与えるロビン・フッドの物語は、小人が誰からも何も奪わずに、靴屋の仕事を手伝う小人の靴屋の物語よりもはるかに有名である。第四部では締めくくりとして、パイの拡大という考え方を、より広い文脈─人間関係の力学、他者への貢献、パーソナル・リーダーシップなど─に応用する方法を議論する。
このようなメンタリティの転換を主張する根拠は何だろうか。それは、企業の長期的な価値創出の推進要因に関するエビデンスの入念な研究である。エビデンスに基づくアプローチは、ビジネスに関する一般的な見解とは相容れない。一般的な見解はケーススタディやストーリーに基づく場合がある。いきいきと描かれるストーリーはトピックに命を与え、語り継がれる。そのためビジネススクール、書籍、TEDトークなどで有効に活用されている。しかし、私が『ポスト真実の世界で何を信じるか』と題したTEDトークで説明したように、実際にストーリーが伝える情報は少ない。なぜなら、どのような見解でも必ずそれを支持するストーリーを見つけられるし、論点を最大限に際立たせるために、最も極端なストーリーを選ぼうとする動機が働くからだ。利益至上主義の賛成派は、それが成功することを示すために、ジャック・ウェルチ時代のGEのストーリーを持ち出すかもしれない。逆に反対派は、エンロンのストーリーを用いて失敗する可能性を示すかもしれない。実際に、GEとエンロンの事例はビジネススクールで主要ケーススタディとして使われているが、どちらのストーリーも、利益重視の企業経営が一般的に機能するかどうかを伝えるものではない。
私はマサチューセッツ工科大学(MIT)スローン校で初々しい博士課程学生として学術的なキャリアを開始したものの、当時の私にとって世界は灰色で鬱々としていた。私は幸運にも経済的な支援を受けてロンドンの私立学校を出たが、私の発言はときどき非常に左翼的で、トイという名前の経済学の教師は、そういう発言を聞くと労働党の党歌「赤旗の歌」を歌ったものだ。校外では、ファーストディビジョン年間最優秀若手フットボールジャーナリストに選出されて、サッカーの商業化や選手の巨額報酬に反対する記事を精力的に執筆したが、大学卒業後は結局、投資銀行のモルガン・スタンレーで働くことになった。しかし、エビデンスの強度に基づいて─先入観と合致するかどうかではなく─見解を組み立てることを通して、一筋の光明がもたらされた。このアプローチによって、ほぼすべての議論に賛否両論があることが分かり、パイの1切れだけでなく全体を考慮することの大切さが明らかになった。エビデンスを探究する中で、パイを大きくするという本書のアイデアが生まれたのである。
ストーリーとは対照的に、エビデンスは数十年にわたって数十の業界、数千の企業から知見を集めたものである。相関関係と因果関係を切り分けて、別の解釈に対処することを試みる。医学では治療の前にまず診断するが、それと同じで、資本主義の改革を提案する前に、まずは問題を正確に評価することが不可欠である。
ただし、エビデンスの質にはかなりのばらつきがある。中でも危険なのが、「─という調査結果がある」という表現だ。なぜなら、主張したい内容が何であれ、それを裏づける調査をほぼ間違いなく選び出せるからだ。企業統治に関する2016年の英国下院の公聴会で、私の前に発言した証人は、2010年1月時点の未完成の論文草案を参照して、「企業の生産性に、最上級幹部と下級従業員の報酬格差との負の相関関係があることを発見した」というエビデンスを引用した。実際には、この論文の最終版が公聴会の3年前に発表されていた。査読を経て厳格な方法論を採用した結果、この論文は次のようなまったく逆の結論に達していた。
⚫︎「報酬格差と従業員の生産性に負の相関関係は発見されない」
⚫︎「企業価値と業績はどちらも報酬格差に伴って上昇する」
研究を都合よく選び出すことの危険性は、確証バイアス─ビジネスに関する自分の既存の見解を支持するエビデンスを、質を問わずに何でも受け入れたいという誘惑─を考えると特に深刻だ。そのためエビデンスに基づく見解は、最も厳格な査読つきの学術誌に掲載された研究を主な情報源にする。このような雑誌では最大95%の論文が却下される。それほど基準が厳しいのである。ここに挙げた例は、研究の厳密さが単なる「学術的」な問題ではなく、実生活での実践にまったく逆の影響を与え得ることを示す。
本書で紹介するエビデンスは、ビジネスに関する定説を覆す意外な結論を次々と明らかにし、一般に推奨されるものとは異なる解決策を提示するだろう。本書を読めば、仰天するほど高額なCEO報酬を引き下げることが、実際には社会に恩恵をもたらす効果的な報酬改革ではないことが分かる。短期間で株式を売却する投資家が、いかに企業の長期的行動を促すかも理解できる。そして、現金を投資ではなく自社株買いに使う企業が、株主のみならず経済全体に長期的な価値をもたらす仕組みも分かるだろう。
もっともエビデンスに基づくアプローチは、ただ1つの正解しかないことを意味するわけではない。事実関係に合意があっても、それに対する意見は人それぞれかもしれない。仮に報酬格差の大きさが生産性に結びつくとしても、生産性よりも格差のほうが深刻だと考える市民から見れば、それは望ましくないことかもしれない。エビデンスの役割は、事実を俎上に載せることにより、政策決定者、実務家、有権者が、情報に基づいてトレードオフをすべて理解した上で、意思決定を行えるようにすることである。おそらく読者は、私のスタンスに同意できない点があるはずだ。むしろ私は、読者の意見とぶつかることを望んでいる。なぜなら本書は、読者がすでに知っていることを補強するための反響室ではなく、新鮮な─そして議論を呼ぶ可能性のある─視点を提供するものでありたいからだ。
重要な点として、私は本書の主な提案にとって不利なエビデンスも紹介するつもりだ。そうすることにより、白か黒かで説明されがちな課題のグレーな部分の興味深さ、複雑さ、奥深さを探究する。平均的な責任投資ファンドがアンダーパフォーマンスであることや、タバコやアルコールといった「罪のある」産業が巨大な利益を上げてきたことも受け止める。レスポンシブル・ビジネスに関する一般的な懸念や、株主価値の最大化に関する議論も真摯に受け止める。そして後者について、一般に風刺されるよりもはるかに奥深い意味があることを明らかにする。長期的に見てもなお、社会に影響を与えて企業の利益に還元されない外部性が存在することも強調する。
このバランスが重要だ。世界経済フォーラムが2020年に出した報告書「ステークホルダー資本主義の進捗の測定」には、「パーパス主導型の企業は、株主への価値という点で同業者より優れ*32」とある。この注釈32の引用記事を確認すると、その最初の文に「無数の研究があるが、社会的責任に基づくスクリーニングがプラスアルファをもたらすという決定的なエビデンスは1つもない」とある。これは本文とまったく逆の主張である。レスポンシブル・ビジネスの提唱者が、自分の伝えたいストーリーに合わせてエビデンスを不適切に引用することは許されない。そのようなことをすれば逆効果になる。CEOたちが、社会的責任を果たす行動は必ず報われると誤解する可能性があるからだ。実際にはそうではなく、エビデンスは、ある活動が真にパイを拡大するか否かを、パーパスを持つCEOが見極める指針になる。
本書で取り上げる学術研究は、経済・金融のみならず組織行動論、戦略、マーケティング、会計など多様な領域に及ぶ。その経済学的知見は、合理的行動の前提だけでなく行動経済学から導き出したもので、不確実性や、標準モデルが機能しない要因も考慮する。さらに、学術研究を補完するために、様々な国や業界の先見性のある企業や投資家の実践的な事例を盛り込んで、エビデンスに血を通わせる。成功だけではなく失敗からも学んでいく。
そして、パーパスをビジネスに定着させるために、取締役、幹部、投資家、政策決定者、ステークホルダーと協力し、学びを得てきた私自身の経験も、その過程で直面した数々の実務的な障害と併せて紹介する。その狙いは、学術的な知見と実務的な知見を組み合わせることにより、本書を単に厳密なだけでなく、実行可能なものにすることである。学術的な優れたアイデアの中には、まさに「学術的」で実践が難しいものも多い。社会貢献は素晴らしい理想だと思えるが、利益の最大化に使用されている既存のフレームワークに比べると、実行するにはあまりに曖昧だ。本書では、パイ拡大のビジネスアプローチが、利益の最大化を基本とするアプローチと同じくらい実践や運用に適した具体的なものになり得ること、また長期的により大きな利益を生み出し得ることを示す。
本文に入る前に、用語について触れておこう。企業を表現する用語の中にはすでに、企業は社会に貢献しない、あるいは貢献する必要がないという先入観が含まれていることがある。
⚫︎会社が搾取的な独占企業であることを書き手が示唆する場合は、企業(corporation)という単語を使用するかもしれない。新旧の会社が進取の精神を発揮して──新たな商品、サービス、従業員エンゲージメントの方法を考案して──パイを拡大できることを強調する場合は、事業体(enterprise)という単語を使うことがある。
⚫︎企業経営者はしばしば、ルーティン業務を受動的にこなす重役(executive)というレッテルを貼られがちである。単に業務を執行するだけの経営者が何百万ドルも受け取るとしたら、一般市民がCEOの給与に異議を唱えるのも無理はない。私たちはリーダー(leader)という言葉を、新しい戦略的方向性を追求したり、従業員を鼓舞したりする姿を強調するために使用することがある。
⚫︎企業幹部は補償(compensation)を受ける。彼らには社会に貢献する内発的動機はなく、その代わりに、社会貢献に対する補償を求める。傷害補償など、不愉快な出来事に対して受け取るのが補償である。リーダーは褒賞(reward)を受ける。行方不明者の発見など、本質的に望ましい出来事に対して与えられるのが褒賞である。
⚫︎被雇用者(employee)は、労働者が生産要素として契約ベースで雇用され、雇用主の命令に従っていることを示唆する。従業員(colleague)は企業の協力者であり、企業の成長に貢献し、その成功を共有する。
⚫︎消費者(consumer)は1回限りの取引を示唆する。財を消費したら取引関係は消滅する。顧客(customer)は企業を長期的にする。
⚫︎株主(shareholder)は、企業の株式を受動的に保有していることを示唆する。投資家(investor)は、積極的なモニタリングあるいはエンゲージメントを通して企業の長期的な成功に投資する責任を強調する用語である。 事業体、リーダー、褒賞、従業員、顧客、投資家。これらはすべて、ビジネスの人間的な面と、それを支える関係性を強調する言葉である。本書は、パイを拡大して社会全体に恩恵を与える上で、これらが不可欠であることを明らかにする。